徒然草・第108段
◇寸陰惜しむ人なし
結論は「とにかく今すぐやれ!」
わずかな時間を惜しんで一途に精進する人はなかなかいないものだ。これはわずかな時間を惜しむ必要性がないとよく理解しているのか、もしくは愚かなるゆえにわずかな時間を惜しむ必要性を理解できないからなのであろうか。
愚かで怠惰な人のために言うならば、1銭は軽いものだが、塵も積もればで貧しい人を富裕にする。よって商人が1銭を惜しむ心は切実である。同じように一瞬一瞬の時間の流れを感じなくとも、瞬間の積み重ねが時間を運び去ることをやめなければ、最期の時はすぐに到来するであろう。
であるから仏道修行者は遠い将来だと侮って長い時間の修行を惜しんではいけない。ただただこの一瞬一瞬の意識が無駄に過ぎ去ってしまうことを惜しまねばならない。
もし、人が来て「お前の命は明日までだ」と告げた場合に、今日の日暮れまでの時間に何をあてにして何を努力しようというのか。我々が生きる今日という日と、余命を明日に控えた今日という日にどんな違いがあるというのだろうか。
しかもその一日の間にも飲食やトイレ、睡眠、会話、歩行などやむを得ず時間を浪費しているのである。その残り時間のいくらもないうちに、無駄なことをしたり、無駄なことを言ったり、無駄なことを考えたりすることで一時の時間を過ごすだけでなく、日にちが過ぎ、月が経ち、一生を送るのは全く愚かである。
謝霊運(しゃれいうん・中国東晋の詩人であり文学者)は、法華経を原典から中国語に翻訳する人だったが、心の中ではいつも風雲の風情ある自然を楽しんでいたので、恵遠(えおん・東晋の僧)は白蓮社(びゃくれんしゃ・中国における浄土教の起こりとされる念仏結社)への入会を許さなかった。
しばらくの間であってもわずかな時間を惜しんで精進しないようでは死人も同然である。時間を何のために惜しむのかといえば、心はあれこれ考えず、身体は世俗と交わらず、悪事をやめようと思う人は悪事をやめ、善行をしようとする人は実行しなさいということのためなのだ。