徒然草・第73段
◇世に語り伝ふる事
この世にはびこる嘘とどう付き合うか
世間で語られることは、事実そのままだとつまらないせいなのか、だいたいは嘘八百である。実際の状況以上に話をこしらえて言いふらすものだから、月日が流れて遠方にもなれば言いたいままに話を作ってしまい、筆で書き留めたりもして、それが実話となってしまう。
専門分野の込み入った話などは、その道に疎い人はまるで神様の言葉のように崇めるけれど、事情通にとっては信奉する価値もないものだ。何でも聞くと見るとでは大違いなのである。
その一方で、喋っているそばから嘘が露見していくのも気にせず、出任せばかり言っているというのは、すぐに底が見えてしまう。また、自分でも嘘っぽいと感じながらも、人が言ったままを鼻をぴくぴくさせながら言うことはその人の嘘ではない。最初に嘘を言った人の嘘である。逆にいかにもそれらしく折々におぼつかない素振りを入れて、よく知らない風で、しかし辻褄を合わせて語る嘘は恐ろしいものだ。
自分のために名誉あるように言われた嘘は、皆それほど否定しない。皆がおもしろがる嘘は、ひとりだけ「そうでもないんだが」と言っても意味がないので黙っていれば、その嘘を肯定した証人にさえされてしまって、嘘がますます真実になってしまう。
とにかく嘘が多い世の中。嘘はどこにでもあり珍しくないものだと思っておけば間違いない。身分が低い人たちの話なんて聞いて驚くような類ばかりである。高貴な人は怪しい話なんてしないものだ。
そうは言っても神仏の奇蹟や、それに準ずる人の伝記を信じてはいけないということではない。これらは中に混じっている世俗の嘘を本心から信じるのもバカバカしいし、「まさかそんな」と言い立てるのも大人げないので、おおよそに関しては真実の話だとして処理して、かといって全てを信じるのではなく、また疑って侮ってもいけないのだ。