徒然草・第172段
◇若き時は
今どきの老人には当てはまらないようですけれど…
若いころというものは、血気盛んで、気持ちがすぐに反応し、情欲が多いものだ。それゆえ自身の身を危うくしやすく、滅ぼしやすくもある。それはまるで球体を転がすかのように。
綺麗な女性に惹かれ、そのために資産を浪費するかと思えば、それらを振り棄てて出家し、質素な法衣に身を包んだりもする。
やたら勇気があり無鉄砲なので人と争うし、自己嫌悪に陥ったり、好みがコロコロと変わったりもするものだ。
そして色恋にハマったり、愛情を感じたり、若さゆえの暴走をして将来を棒に振ったりする。命さえ投げ捨てても良いと願うまでになって、我が身の長寿など思うこともなく、情愛を注ぐ相手にのみ心惹かれては、のちのちの語り草になるようなことをしでかすのだ。
結局、身の振り方を誤るのは、若いころの行動である。
老いた人は気力も落ちて、心がさっぱりとおおらかになるので、感情の振り幅が広くならない。心が自ずから沈着しているので無駄なことをせず、自身の健康に留意するので病気もせず、他人に迷惑をかけないように願うものだ。
老いた人の知恵が若者を上回ることは、若者の見た目が老いた人よりも優れているのと同じようなものである。
徒然草・第173段
◇小野小町が事
謎多き女性・小野小町
小野小町(おののこまち・9世紀ごろの女流歌人。絶世の美女と言われている)のことは、全くはっきりと判っていない。晩年の衰えた様子は「玉造小町壮衰書」(たまつくりこまちそうすいしょ・平安後期の漢詩文作品)に書かれている。
この書物は三善清行(みよしのきよゆき・平安時代中期の公卿、漢学者)が書いたという説があるものの、空海(弘法大師)の著作の目録に入っている。
しかし空海は承和年間の始め(承和2年・835年)に亡くなっているのだ。小野小町の美貌が絶頂の時代というのは、その後の時代ではないだろうか。まったくもってはっきりしないことだ。
徒然草・第174段
◇小鷹によき犬、大鷹に使ひぬれば
要は出家しろってこと
小型の獲物を狩る鷹狩りに適した猟犬を、大型の獲物を狩る鷹狩りに用いてしまうと、小型の獲物を狩れなくなるという。大を選べば小を捨ててしまうことになるという理屈は、まったくそのとおりだ。
人がする行為は山のように種類があるが、仏の道に励む行為に喜びを見出すことより味わいのあることはない。これこそ人生における最大の重要事項なのだ。
ひとたび仏の道の素晴らしさを知ってこの道に進もうとする人が、他のもろもろの仕事を捨てないことがあろうか。他のもろもろの仕事に手を出そうとするだろうか。愚かな人であっても、賢い犬の心にすら劣っているなどということがあろうか。いや、そうではない。愚かな者だって仏の道に進む決意をすれば、他の些末なことを捨てるものなのだ。