徒然草・第49段
◇老来たりて始めて道を行ぜんと
要は今すぐ出家しろという話
老いてから初めて仏道の修行をしようと待っていてはいけない。古い墓は多くは若くして死んだ人のものなのだ。
思いがけずに病に罹り、早々にこの世を去ろうという時になって初めて過去の過ちに気付くものだ。
過ちとは他でもない、すみやかにしておくべきことを後回しにして、後回しにすべきことを優先してやってしまい、生涯を過ごしたことが後悔となるのである。そのときになって悔いたとしても、もうどうしようもない。
人はただ死がその身に迫りくることをしっかりと心に刻んで、一瞬たりとも忘れてはいけないのだ。そうすればこの現世での邪心も薄まって、仏道修行する心がけも真剣になるものである。
「昔いた高僧は人が来て用事を話す時に、それに応えて『今、急ぎの用があって、もう時が迫っているのだ』と言っては耳を塞いで念仏しては、ついに往生を遂げたのだ」と永観(ようかん・えいかん・平安時代後期の僧)の「禅林十因(ぜんりんじゅういん)」という書物に書いてある。
心戒(しんかい)という高僧はあまりにもこの世の仮初めのはかなさを思い続け、静かに膝をついて座ることすらなく、いつも膝を立ててうずくまっていたのだそうだ。
徒然草・第50段
◇応長の比伊勢国より
いかに人間がデマに騙されやすいかという話
応長のころ(1311~1312年)、鬼になった女を伊勢から引き連れて上洛したということがあって、そのころ20日ほどの期間毎日、京の白川(しらかわ・京都市左京区)の人が鬼見物に出歩いた。
「昨日は西園寺(さいおんじ・京都市北区)に伺ったそうだ」「今日は院御所へ参上するらしい」「ちょうど今、どこそこにいる」などと言い合っていた。
はっきり見たと言う人もなく、嘘だと言う人もいない。貴族も下人も皆、ただただ鬼の事ばかり話している。
そのころ、東山から安居院(あぐい・京都市上京区の里坊)へ行った時だが、四条通りから北の人たちが皆、北へ向かって走っていた。「一条室町(いちじょうむろまち・京都市上京区)に鬼がいる」と騒いでいる。
今出川の近くから見れば上皇の桟敷(さじき・一段高い観覧席)のあたりは人が通り抜けられないほど混み合っていた。かねてから根も葉もない類ではなかろうと思ってたので、人を見に行かせてみたところ、鬼に出くわしたものはいない。
日が暮れるまで人が騒いでは、しまいに喧嘩まで起きてしまい、呆れることがいくつもあった。
そのころ世間では二・三日、病気になる人がいたので、あの鬼のデマは、この病気の流行のきざしだったのだと言う人もいた。
徒然草・第51段
◇亀山殿の御池に
餅は餅屋ですね
後嵯峨上皇の院御所の池に大堰川(おおいがわ・桂川)の水を引き入れようと、川の近辺の住人に命じて、水車を作らせになられた。
多額の金銭を賜り、数日で作っては川に設置してみたが、まったく回転しないので、とにかく修理したけれども結局回転せず、ただ単にそこに立っているだけになってしまった。
そこで、宇治(京都府宇治市)の里の民をお呼びになって作らせたところ、ひょいひょいと作ってしまった水車が思った通りに回転して水を汲み上げたのはさすがだった。
すべてにおいてその道の専門家は立派なものである。