徒然草・第19段
◇折節の移り変るこそ
「春はあけぼの」の徒然草版
季節の移り変わりは風情がある。
風趣は秋こそ至高とされるが、心までも浮き立つのは春であろう。鳥の声は春めき、日射しものどかに、垣根の下草は芽を出すころから春らしさも深まって霞がかかる。桜も咲き始めるが、雨風が続いて急かされるように散ってしまう。桜は心をかき乱す存在だ。
橘の花は昔を偲ばせると言うが、やはり梅の花の香りこそ古い時代を思い出させてくれる。山吹の花がきれいに咲いているのも、藤の花がおぼつかない風情でいるのも見捨てられない。
灌仏会(かんぶつえ・陰暦4月8日の釈迦誕生日)のころ、葵祭りのころ、若葉が涼しげに茂る時季は情趣も人恋しさも強く感じると人が言っていたがそのとおりだ。
五月の菖蒲のころ、田植えのころ、水鶏の鳴き声、どれも心寂しい。六月、身分が低い人の家先に夕顔が花を白く咲かせ、蚊を追い払おうといぶす煙にも風情がある。
七夕は優雅。だんだん夜が寒くなり、雁が鳴くころ、萩の木の下葉が黄色くなるころ、稲刈りなど多くのことが行われるのも秋ならではだ。また、台風一過の朝も趣深い。
これらは「源氏物語」「枕草子」などで言い古されたことだが、同じことをまた言ってはいけないということもなかろう。言いたいことを腹に溜めこむのは良くないので筆に任せて書きつつも、面白くもない手すさびゆえに書いては捨てるつもりだし、人が読むようなものではないから別にいいのだ。
さて、冬枯れの景色こそ秋に劣ることはあるまい。池の傍の草に紅葉が落ちて霜が白く下りた朝、遣水(やりみず・庭に引きこんだ小川)から霧が立つのも風情たっぷりだ。
年の暮れに人が忙しくしているのも趣きがある。荒涼として眺める人もいない細い月が寒々しく澄んだ二十日過ぎの夜空は寂しい。
仏名会(ぶつみょうえ・陰暦12月15日から行われる法会)での勅使の出発なども尊いものである。行事が多く、新年の準備と並行して催される様子はたいそうなものだ。
大晦日の鬼やらいから元旦の四方拝(しほうはい・天皇による新年の祈りの儀式)に続くのも面白い。大晦日の夜、真っ暗な中、松明(たいまつ)を灯して夜半過ぎまで家々の戸を叩いて廻り歩いては騒ぎ立てていた連中が、明け方にはさすがに静かになっている様子というものは、過ぎ行く年が名残惜しく思える。
死んだ人の魂が戻って来る夜に魂を祀る行事を執り行うことも、都ではしなくなったが、東の地方ではまだやっている。素晴らしいことだ。
こうやって年が明けて行く空の様子は、昨日と変化ないように見えるが、珍しい心地になる。大通りでは門松を飾って華やかに喜ばしい感じなのがまた趣きがある。