徒然草・第85段
◇人の心すなほならねば
ある意味毒舌入ってます
人の心は素直ではないので、偽りもないわけではない。しかし、全くもって心が正直な人がいないことがあろうか。自分が素直ではなくとも、他人の賢さを見て羨ましく思い、そうありたいと思うのは世の常である。
ところが愚かな人は数少ない賢い人を見てこれを憎むのだ。
「大きな利益をもくろんで少しの利益を受け入れず、偽り飾って名声を得ようとしているのだ」と謗るのである。
愚かな自分の心が賢い人のものと異なることを理由に謗るものだから、生まれついての愚かさから脱することができず、小さな利益を拒むこともできず、かりそめにでも賢い人から学ぶこともできないのだ。
キチガイの真似だと言って大通りを走るなら、その人はその時点でキチガイなのだ。悪人の真似だと言って人を殺せば、その人は悪人なのだ。一日で千里を走ると言われる駿馬を見習えばその馬は駿馬であり、舜(しゅん・中国神話に登場する聖人君主)を見習えば舜の仲間なのである。自分を偽ってでも賢者の真似をする人は賢い人なのだ。
徒然草・第86段
◇惟継中納言は
徒然草にはあだ名のネタがいくつもあります
平惟継(たいらのこれつぐ・鎌倉時代後期の公卿)は、詩の才能豊かな人だ。
一生を仏道修行に精進するということで、読経をし、園城寺(おんじょうじ・滋賀県大津市の三井寺)の円伊(えんい・鎌倉時代後期の画僧で一遍上人絵伝を描いた)を師匠として従事していたが、文保3年(1319年)に園城寺が焼き討ちに遭った時に、円伊に対して
「あなたをこれまで寺法師と呼んでいたが、寺は焼失したので、今後は単に法師と呼ぼう」と言っていたのは、かなり上手い言いまわしだ。