徒然草・第45段
◇公世の二位のせうとに良覚僧正と聞えしは
その昔、「まんが日本昔ばなし」でも放送されたエピソード
藤原公世(ふじわらのきんよ・公卿)の兄弟で良覚僧正(りょうがくそうじょう)という僧侶は、とても怒りっぽい人だった。
僧坊の脇に大きなエノキの木があったので、人たちは「榎木僧正(えのきのそうじょう)」と呼んでいた。こんなあだ名はよろしくないと言って、僧正は木を切り倒してしまった。
それでも切り株が残っていたので「切り株の僧正」と呼ばれてしまった。僧正はますます腹を立てて切り株を掘り起こして捨ててしまったところ、その掘った穴が大きな堀のようだので「堀池僧正(ほりいけのそうじょう)」と呼ばれるようになったそうだ。
徒然草・第46段
◇柳原の辺に
第45段を受けての超ショートショート
柳原(やなぎはら・京都市上京区)の辺りに、強盗法印(ごうとうほういん)と呼ばれた僧侶がいた。たびたび強盗の被害にあっていたので、この名がついたのだとか。
徒然草・第47段
◇或人清水へ参りけるに
傍から見たらただの変人です
ある人が清水寺(きよみずでら・京都市東山区の寺院)に参り、老いた尼と道中一緒に行ったのだが、道すがら「クシュンクシュン」と言いながら行くので、「尼君さま、何をおっしゃっているのか」と訊いてみても返事もしない。
なおのこと言い続けるので、何度も問いただしてみれば、腹を立てて「うるさい。くしゃみをした時に、このおまじないを言わないと死んでしまうと言うから、私が乳母をしていた若君が比叡山に稚児としておいでになるのに、もう今にもくしゃみをしているかと思えば心配になって、このおまじないを唱えてるのだ」と言った。
世にも珍しい厚意であることだ。
徒然草・第48段
◇光親卿院の最勝講奉行してさぶらひけるを
常識も時代が変われば変化するということです
藤原光親(ふじわらのみつちか・葉室光親、鎌倉初期の公卿)が後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の院御所で催された最勝講(さいしょうこう・5月の法会)の奉行を勤めていた際、上皇が光親を御前に呼び、食事を出して食べさせになった。
すると、光親は食べ終わった食器を上皇のいらっしゃる御簾(みす・スダレ)の中に差し入れて、退出してしまった。
女房たちは「なんて汚い。誰に片付けろと言うつもりなのか」と言い合っていたが、上皇は「昔ながらのしきたりどおりの振る舞いで、非常に素晴らしい」と返す返す感心されたということだ。