徒然草・第217段
◇或大福長者の云はく
金持ちの意見と兼好の意見、どちらを聞き入れますか?
ある大金持ちが言うには、
「人は何よりもまず、ただひたすら裕福になることに精を出すべきである。貧しいままでは生きる甲斐もない。裕福な人だけが人なのだ。
裕福になりたければ、当然まずは心の持ちようを修行しなければいけない。その心というのは、他でもない。人は永遠に変わらない世界で生きているのだと思うことである。かりそめにも無常観なんてものを持ち合わせてはいけないのだ。これが第一の心がけである。
次に大切なのが、何もかもやってしまおうと考えないこと。人生は自分の事でも他人の事でもやりたいことだらけである。欲求に従ってやりたいことを全部やってしまおうとすれば、百億万のカネがあってもほとんど残りはしないだろう。欲求は際限ないものだからである。そして財産には限りがある。
限りある財産をもって無限の欲求を叶えようとしても、それは無理というもの。だから欲求が生じたときには、我が身を滅ぼす邪念が心に生まれたのだと固く慎み恐れて、節約に励んで小さな欲求でさえ叶えてはいけない。
次に、カネを自分の奴隷のように好き勝手に使えるものだと思っているようでは、いつまで経っても貧困から抜け出せまい。カネを自分の主人のように、神のように畏れ尊びなさい。カネは奴隷のように好き勝手使うものではないのである。
次に、カネのことで恥をかく事態になっても、怒ったり恨んだりしてはいけない。次に、正直に約束を守る生き方をすること。
これらの戒めを守って裕福を追い求めれば、結果は向こうから勝手にやって来ることは、火が乾いた方に延焼し、水が低い方に流れるのと同じ論理である。
カネが貯まって貯まって仕方ない状態になったなら、宴会をしたり、女に走ったり、家の中を飾り立てたり、欲求を満たさなくても、心が幸福に満たされていて楽しいものだ」と言っていた。
大体にしてそもそも人は、欲求を叶えるためにカネを求める。カネが財産になり得る理由は、カネが願いを叶えてくれるからだ。欲求があるのにそれを叶えず、カネがあるのに使わないというのは、全くもってカネがなくて使うことができない貧乏人と同じではないか。使わないカネを蓄財して一体何が楽しいんだろう。
この大金持ちの言葉は結局のところ、全ての欲求を断ち切って貧乏を嘆かずに受け入れろと言っているように聞こえてしまう。欲求をカネを使って叶えて楽しいと思っている人は、 カネがないのに楽しんでいる人よりレベルが低いのだ。悪性の腫れ物を患っている者が水浴びをして症状が和らぐ心地を覚えるよりか、最初から腫れ物なんかできないほうが良いのと同じことだ。
ここに至っては、金持ちと貧乏人も大差ない。究竟(くきょう・仏教での最高の悟りの境地)と理即(りそく・まだ仏の教えを知らない状態でも成仏できること)には差がないという話と同じである。大欲は無欲に似ているのだ。