徒然草・第74段
◇蟻の如くに集まりて
どうせすぐ死ぬんだから、というのが結論
アリのように集まっては東西に急ぎ、南北へ走る。身分の高い者もいれば低い者もいる。老いた者も若い者もいる。行くところがあれば、帰る家もある。夜寝て、朝起きている。彼らが懸命に生きる理由は何だろう?
それは長寿を願い、利益を追求して止まないからだ。
健康に留意して長生きしたとして何を待つというのか。待っているのは老いと死だけなのだ。しかも思わぬ早さでやって来るし、とどまることもない。それを待つ間に何の楽しみがあるというのだろう。
しかし迷える者は迫りくる老いと死を恐れもしない。名誉や利益に溺れて死が近くにあることを顧みないからである。また愚かな人は老いと死がすぐに迫って来ることを悲しむが、自分が衰え老いて行きたくないとばかり考え、全てのものは変化するという理を知らないからなのだ。
徒然草・第75段
◇つれづれわぶる人は
第74段を受けて、ではどう生きるべきかという話
何をするでもないような生活を厭う人とは、いったいどんな心なのだろうか。気が移るようなものもなく、たったひとりでいるという生き方が良いのに。
世間づきあいをすると心は外部のゴミのような誘惑にほだされて迷いやすくなり、人と交際すれば口から発せられる言葉は聞いた人がどう思うかによって意味づけされるゆえに、心の真実のままではなくなるのである。他人と戯れたり、物事を争ったり、恨んだり喜んだり、コロコロと変化して定まることもない。知恵が働くので損得勘定ばかり動く。惑っているうちに心は酔ってしまい、酔って夢を見ているようなものだ。
身体は走るように忙しくしていても、心はぼんやりしているような状態と言う意味では、世の人は皆似たようなものなのである。
まだ仏の道を知らない身であっても、世俗と離れて身を静かな状態に置き、世に惑わされず心が平穏であることが、かりそめにも楽しむことだと言えよう。
「生計、交際、技能、学問などの全ての縁を断ちきってしまえ」と摩訶止観(まかしかん・仏教の論書)にも書いてある。
徒然草・第76段
◇世の覚え花やかなるあたりに
坊主は世俗にまみれるな、ということです
世間で羽振りが良いとされる人の家に不幸や慶びがあって、人が多くその家へ伺う中に、僧侶たちが立ち混じって門前で案内を乞うために待っているというのは、すべきではないと思うのだ。
しかるべき理由があるとしても、僧侶は世俗の人と距離を置いた方がいいのである。