徒然草・第20段
◇某とかやいひし世捨人の
短くも深い内容
なんとかという世捨て人が「この世に何も持たざる我が身だが、ただ空を眺めて受ける感慨だけは捨てられない」と言ったのはその通りだ。
徒然草・第21段
◇万のことは月見るにこそ
自然と触れ合えば心が晴れるのは今も昔も同じです
大体のことは月を見れば心が慰められるものだ。ある人が「月こそ至高」と言ったところ、別の人が「露こそ風情がある」と言い合っていて興趣があった。時季によっては何でも趣き深くあるものだ。
月や花はもちろん、風も心に訴えるものがある。岩に当たって砕けて流れ散る水もまた季節を問わず素晴らしい。「中国杭州を流れる川の水は日夜東へ流れて行く。東の都を懐かしむ自分のために留まってくれることはない」という戴叔倫(たいしゅくりん・唐の詩人)の詩を見たときは感慨深かった。
嵆康(けいこう・魏の哲学者、詩人)も「山や沢で遊んで魚や鳥を見れば心も楽しい」と言っている。人里離れた水や草が清いところを歩きまわれば心も慰められるものだ。
徒然草・第22段
◇何事も古き世のみぞ慕はしき
特に言葉遣いについて懐古主義が炸裂します
何でも古い時代が心惹かれるものだ。今どきのものはどれもこれも卑俗になってしまっている。木工の匠が作る美しい器も、伝統的なものが良いと思う。
手紙の言葉も、昔の反故にしたものは素晴らしい。口から出る言葉も昔に較べると情けない感じがする。昔は「車をもたげよ(牛車の轅(ながえ・前に突き出た2本の長い木)を持ちあげよ)」「火かかげよ(灯りの芯を掻き立てて明るくせよ)」と言ったのに、今では「もてあげよ」「かきあげよ」と言う。
「主殿寮(とのもりょう・宮中の管理担当者)、人数立て(並んで場を照らせ)」と言うべきを「たちあかししろくせよ(松明で照らせ)」と言い、最勝講(さいしょうこう・5月の法会)の御聴聞所(みちょうもんじょ・天皇が講義を聞く場所)のことを「御講の廬(ごこうのろ)」と呼ぶのを「講廬(こうろ)」と言う。
これは情けないことだと昔を知る人がおっしゃっていた。