徒然草・第56段
◇久しく隔りて逢ひたる人の
どの時代でもお喋りな人は良く思われないようです
久しぶりに会った人が、自身にあったことをひっきりなしに喋り立てるのは良くないものだ。隔てなく慣れ親しんだ人であっても、しばらくぶりに会うのだから遠慮を感じるのが道理である。
教養がない者は少しの外出であっても、帰ってくるなり今日あったことだと言って、息もつかずにべらべら喋りがちだ。
立派な人が物を話す時は、大勢人がいてもその中のひとりに対して話しかけるのを、自然と周囲の人も聞き入るもの。そうでない人は誰に対してというわけでもなく、大勢の中でまるで見てきたかのように語り出すので、皆がげらげら笑いながら騒ぐという大層騒がしい様相になる。
面白いことを言ってもそれほど面白がらない人と、面白くもないことを言ってもよく笑う人とで、その人の品格も推し測ることができるだろう。
人の風貌の良し悪しのことや、また学識ある人がそのことを論じ合う時に、自身を引き合いにして話をし始めることは大変聞き苦しいものだ。
徒然草・第57段
◇人の語り出でたる歌物語の
知ったかぶりは呆れられます
人が語りはじめた歌物語の中で、肝心の和歌ができそこないだとがっかりだ。少しでも和歌に心得がある人ならば、できそこないの和歌を良いものとして語ったりしない。
なにごとにつけ、よく知らない分野のことをべらべらと話すのは、笑止千万で聞き苦しいものだ。
徒然草・第58段
◇道心あらば住む所にしもよらじ
とにかく出家しろと言いたいような
「仏の道を進む心構えさえあれば、どこに住もうが構わない。世俗と交流をすることは来世の往生を願って修行する妨げにはならない」と言うことは、全くもって来世を知らない人である。
まことにこの世を儚んで必ず悟りを開こうと思う時に、何の興味があって朝晩主人に仕えて家庭を顧みるような仕事に邁進するものか。心というものはまわりの状況に影響されて変化するものだから、静かな環境でないと修行はできっこないのだ。
人の器は昔の人に及ばず、山に入っても飢えをしのいで嵐を防ぐ手立てがないと生きてはいけないのだから、世俗的な欲を貪ることだって時にはあるはずだ。
だからといって「それでは世間に背を向けた意味がない。そんな程度のことならばどうして世を捨てたのか」などと言うのは無理難題というものであろう。さすがに一度仏の道に進んで山籠りをする人は仮に欲が出たとしても、この世の栄華にいる人の貪欲さには及びはしない。
紙でできた寝具、麻でできた衣類、茶碗一杯の食事、藜(あかざ・雑草の名前、葉を茹でて食べることができる)の吸い物といったものがどれほど高価だと言おうか。すぐに手に入るものばかりなので、その心もすぐ満ち足りるだろう。僧侶としての見た目から気が引けることもあるので、欲が出るとしても悪事には縁遠くなり善には近づくことが多いのだ。
人として生まれたからには、いかにしてでも出家することがあるべき姿である。やたらめったら欲を貪ることに力を注いで仏の道に入ろうとしない者なんて、あらゆる動物と何ら変わらないではないか。