徒然草・第167段
◇一道に携はる人
吉田兼好流の自慢話の戒め
ひとつの道に専門に携わる人が、専門外の会合に臨んで「ああ、これが自分の専門の分野なら、こうも単にただ見てるだけで終わらぬものを」と言ったり、心にも感じることはよくあることだが、非常に良くないことだ。
専門外の知らないことを羨ましいと感じるならば「ああ羨ましい。私も習っておけばよかった」と言っておけばよいのだ。自身の賢さを引き合いに他人と競うのは、角がある動物が角を傾けて相手と対峙し、牙がある動物が牙をむき出しにして相手を威嚇するのと同類といえよう。
人間ならば自身の長所を誇らず、他人と競わないことを美点とする。他人よりも勝ることは、逆に大きな失点なのだ。家柄が高かろうが、才能や芸事に優れていようが、先祖が立派であろうが、他人に勝ると思っている人はたとえ口に出してそれを言わなくても、心の中に多くの失点があるものである。
他人より優れていることに関しては、よく慎んでいっそ忘れてしまうほうが良い。バカかと思われ、他人から非難もされ、災いまで招いてしまうのは、ただただこの慢心のためなのだ。
ひとつの専門の道を極めた人というものは、自らの欠点を明らかに自覚しているので、自身の志が完全に満たされるということがない。それゆえに最後まで他人に自慢したりはしないものなのである。
徒然草・第168段
◇年老いたる人の
吉田兼好流の自慢話の戒め・年寄り編
年老いた人でひとつの優れた才能があり、「この人が死んでしまったら、誰に尋ねたらいいのやら」などと言われるようになることは、その老人にとっては強い助っ人の存在であり、長生きするのも悪くはない。
とはいえそんな老人だが、衰えが一切ない人であるなら、それはそれでこの人は一生をこれに従事して過ごしてきただけの存在なのだなと、くだらなく思えてしまう。そんな老人は専門のことを尋ねられた際には「今は忘れてしまった」と言っておればいいのだ。
大体専門知識について詳しく知っていたとしても、それをペラペラと吹聴する姿は、程度が知れる才能のレベルに見えるし、間違った知識を言うことだって時にはあるだろう。「はっきりとは判りません」などと言うのが、やはりまったくその道を極めた者らしく感じられるに違いない。
逆にろくに知りもしないことをしたり顔で、反論できない相手に対して老人が言って聞かせているのを、「そうじゃない」と思いながら聞いているのはとてもやりきれないことだ。