徒然草・第38段
◇名利に使はれて
人に不要なモノとは何か
名誉と利益に操られて、落ち着く暇もなく一生苦しむことは愚かなことだ。
財が多いと我が身を守ることもままならない。害や煩いを招く媒介である。北斗星を支えるほど財を積み上げたとしても、子孫には迷惑にもなる。
愚かな人の目を喜ばせる楽しみもまたつまらぬものだ。大きな車、よく肥えた馬、宝飾品も、心ある人が見れば愚かだと思うだろう。金は山に捨てて、宝玉は淵に投げ捨てればいいのだ。利に惑わされるのは非常に愚かなことである。
永遠に続く名誉を世に残すことも、誰しもそうありたくは思うだろうが、位が高く高貴な人のみが優れた人だとは言えまい。愚拙な人だって、生まれが良くて時流に乗れば、出世して贅沢を極めることもできる。逆に賢者、聖人が低い身分のまま、時勢にも乗らず人生を終えた場合も多い。
やたら高い身分や職位を望むことも、利を欲するのに次いで愚かなことなのである。
智恵と心が非常に素晴らしいとの名声を世に残したいものだが、よく考えてみれば名声を尊ぶことは世間の評判を喜ぶことなのだ。褒める人も貶す人もいつまでも生きているわけではない。名声を伝え聞く人だって死ぬのだ。誰に対して恥じ、誰に対して知られることを願うことがあろうか。
名声はまた悪口を言われる種でもある。死後の名声など残したところで何の意味もないのだ。名声を望むことも、高い身分や職位を望むことに次いで愚かなことなのである。
ただ、智を追い求め、賢者になろうと願う人のために言うならば、智恵の向上は偽りを生むし、才能もまた煩悩が増長したものである。伝聞や勉強で知ったことなど真実の智ではない。
何をもって智とするべきか。可だ不可だと評したものにしたって、二元論で区別できるものではなく、ひと繋がりになっているものだ。何をもって善とするべきか。人を越えた存在の人には智も徳も功も名声もない。そんな境地の人のことを誰が知って誰に伝えることができよう。
このような人は自分の徳も隠し、愚者のようにしているわけでもない。もともと賢愚や損得の世界では生きていないのだ。
迷いの心のままで名誉と利益を求めているとこんなことになるので、すべて否定されるべきである。名誉や利益などというものは言うに及ばず願うにも及ばないものなのだ。