徒然草・第52段
◇仁和寺にある法師
中学校で習いましたよね
仁和寺(にんなじ・京都市右京区の寺院)の僧侶が年をとるまで石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう・京都府八幡市の神社)を参拝したことがなかったので、情けないことだと思い、あるとき思い立って、たったひとりで徒歩で参詣した。
極楽寺や高良(こうら・極楽寺とともに石清水八幡宮の末社)などを拝んで、こんなものかと思って帰ってしまった。
そして周囲の仲間に「長らく思い続けてきたことをやり遂げてきた。聞きしに勝るとも劣らぬ尊さだった。
それにしても参拝客が皆、山へ登って行くのは何かあったのだろうか。見てみたくはあったが、石清水八幡宮に詣でることが主旨だと思って山までは見なかったのだ」と言ったそうだ。
少々のことであっても、案内人はあったほうがいい。
徒然草・第53段
◇これも仁和寺の法師
仁和寺はネタの宝庫なのでしょうか
これも仁和寺の僧侶の話だが、お稚児さんが僧侶になるとのことで、その別れを惜しんで僧侶がめいめい芸をして遊んでいたときのこと。
酔った勢いで僧侶が三本の脚がついた壷を手にして頭からかぶってみたものの、つっかえてしまったので鼻を押して平べったくして顔を突っ込んで舞い出たら、場は大盛り上がり。
しばらく舞ったあとで、壷を抜こうとしたが全然抜けない。宴会の盛り上がりも冷め、皆どうしたらいいか戸惑っている。なんとか抜こうとすると、首のまわりは傷つき、血は流れ、パンパンに腫れあがっては息苦しくもなってきたので、壷を割ってしまおうとするが簡単には割れない。叩き割ろうとする音が壷の中で響いてたまったものではないため、この方法もダメ。
良い策もなく、壷の三本脚の上に布をかぶせて手を引いて杖をつかせて京都の医者のもとへ連れて行った。道中では人が怪しんで見ることこの上ない。
医者の家に入り、たがいに向き合った様子といったらさぞ異様だったろう。僧侶が何か言葉を発しても、壷の中で共鳴して何を言っているのか聞こえやしない。
「こんな事例は書物にもないし、口伝でも伝わっていない」と言うので、また仁和寺に帰って、親しい者や老いた母などが枕元に寄ってきては泣いて悲しむが、本人は聞いているのかどうかも判らない。
こうするうちに、ある者が言うには「たとえ耳や鼻がちぎれて無くなってしまったとしても、命まで落すということはない。ただ渾身の力で引っ張りなさい」とのことなので、藁を首の周りに挿し入れて、首がもげるくらいに壷を引っ張ったところ、耳と鼻を失ってしまったものの、頭は壷から抜けた。
僧侶はからがら命拾いして、その後長い間患っていたのだそうだ。