徒然草・第91段
◇赤舌日といふ事
日取りの縁起にこだわることのバカバカしさ
赤舌日(しゃくぜつにち・陰陽道の羅刹神が支配する日で、平安時代あたりから不吉だとされるようになった)という日は、陰陽道において特に不吉だとかと問題視してはいない。昔の人はこの日を忌まわしい日だとしていないのである。昨今、何者かが不吉だと言いだして忌み嫌われるようになったのだろうか。赤舌日に始めたことは最後まで上手くいかないと言って、その日に言ったこと、したことは成就せず、手に入れた物は失い、計画したことも達成できないのだと言う。ばかばかしい。
吉日を選んでやったことでも最後まで遂行できずに終わる事例を数えてみても、その数は同じ程度であろう。
無常で何もかもが一定せず変化し続ける世界の際では、そのままあり続けることはない。始まったことが、終わりを遂げることもない。志は実現せず、望みだけはいつも湧き起こる。人の心とは定まるものではないのだ。物は全て変幻する。
いったいどの物がずっと同じ状態を維持していられようか。この論理を知らないために、赤舌日を忌み嫌うようなことが起きるのである。
「吉日に悪いことをすれば、結果は必ず凶になる。悪日に善を行えば、必ず吉になる」と言うではないか。吉凶はその人によって起こるものであり、日によって起こるものではない。
徒然草・第92段
◇或人弓射る事を習ふに
今この瞬間を懸命に
ある人が弓を射ることを習っているときに、矢を2本持って的に向かった。師匠が言うには「初心者が2本矢を持ってはいけない。2本目の矢をあてにして、1本目の矢をなおざりに射ってしまう気持ちになってしまうからだ。毎度、的を外すことなく、この1本の矢だけで仕留められるように思いなさい」
たった2本しかない矢を、師匠の前で1本でもおろそかにしようと思うであろうか。けれども、2本目の矢をあてにする怠け心というものは、自分では意識しなくとも、師匠は理解しているのである。
この戒めはすべてのことに通じる。
仏道を志す人で、夜には明日の朝があるのだから、朝には夜があるのだからと思って、そのうちいずれしっかりと修行すればいいと思っていることがある。しかしながら、一日という期間のうちですら怠けてしまうのだから、一瞬一瞬の期間にも怠けてしまう気持ちが起きることに気付きすらしないだろう。
なんともこの一瞬一瞬の意識において、ただちに修行を実践するということは難しいものなのである。