徒然草・第82段
◇羅の表紙は疾く損ずるがわびしき
不完全の美学
「薄い布を張った書物の表紙は、すぐに破損するのが困る」と人が言ったとき、頓阿(とんあ・南北朝時代の歌人)が「薄い布の表紙は布の上下がほつれ、螺鈿(らでん・貝を漆器にはめた装飾)の巻物の軸は貝が落ちてしまったあとのほうが趣きがある」と言ったのは優れたことだと思った。
ひとつにまとまった書物などがそれぞれ同じような見た目をしていないと、ちぐはぐでみっともないとされるが、弘融(こうゆう・仁和寺の僧侶)が「物を揃えて整えようとするのは、くだらない人がやることだ。不揃いこそいいのだ」と言ったのも非常に良いと思った。
「おおよそ何でも皆、物事が整っているのは良くない。やり残しを敢えてそのままにしておくのが風情があり、その物事の命が延びる方法なのだ。内裏を造営されるときでも、必ず造り終えない場所を残すのである」とある人が言っていた。昔の賢者が記した仏教や儒教の書物もまた、章段が抜けているものがあるのだ。
徒然草・第83段
◇竹林院入道左大臣殿太政大臣に上り給はんに
これもいわば不完全の美学
西園寺公衡(さいおんじきんひら・鎌倉時代後期の公卿)は、太政大臣に昇進されるのに何の障りもなかったのだが、「普通すぎてつまらない。左大臣で終わりにする」と言って出家された。
藤原実泰(ふじわらのさねやす・鎌倉時代後期の公卿)はこれに感心し、自身も太政大臣になろうとは思わなかった。
「昇りつめた竜には悔いが残る」ということがある。月は満月になると欠けていき、物事は盛りを過ぎると衰えるものだ。すべては先が行き詰ると破綻に近くなるという道理である。
徒然草・第84段
◇法顕三蔵の天竺に渡りて
強いて言えばこれも不完全の美学
法顕(ほっけん・4世紀中国東晋時代の僧)は天竺(インド)に赴き、故郷の扇を見ては悲しみ、病で臥せってるときは故郷の食事を欲しがったと聞いて、「それほどの高僧でも非常に気弱な素振りを外国で見せたのだな」とある人が言うと、弘融(こうゆう・仁和寺の僧侶)は「優しくて情の深いお人だよ」と答えたのは、僧侶っぽくない言い草で奥ゆかしく思われた。